昭和49年03月22日 朝の御理解

 御理解 第18節 
 「此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っている人々がみな、神の氏子じゃ、生神とはここに神が生まれると云う事で、此方がおかげの受け始である。皆んなもその通りにおかげが受けられるぞ。」

 昨夜休ませて頂いて、今朝起こして頂きますまでお布団の中で、こうおうなかせ休んで色々ものを思わせて頂き又は祈らせて頂いておる。もうおいさみが床の間の方へ私は頭をこう休んでいます。床の間の方へまたは足元の方へもう私が思う何か思うと、もうそれこそパチッパチッと、それもすっきりしたおいさみがもう頂きづくめでした。そのどう云う事を私が思うかというと勿論皆さん信者さん一人一人の事をじっと祈る。
 もう益々目が冴えるばかり益々心の中には、有難いものばっかり溢れて来る様に、有り難うなって来る。そして私思うたり祈らせて頂いたりしておる事がどう云う事かと言うと、例えばねら、皆さんの一人一人の事を言うてもなら、家族の事を言うてもです思うても、今のいまの所謂その身そのままと云う事を申しますがね。その身そのままおかげを受けておるのであり、其処の所を起点として、ね。一歩一歩神様の方へ近付いて行く信心を頂きます様にと言う意味の事を思うたり祈ったりさせて頂いておったです。
 今までは例えば折角信心しておってそげなこつ、そげな信心じゃおかげが受けられん。そげな事じゃいかん。あの人はほんにまあ一押しばってんが、ね、あげな事ではおかげが受けられるもんかいと、例えば言うても聞かん。言うても聞かんからついそう云う事になって来る。ね。ああ云う事ではおかげが受けられない。ああ云う事ではおかげが受けられないと思う。それでもやっぱり受けて貰たいから言いもすりゃあ祈りもする。ね。けれども、昨夜はそうではなかった。
 もう一人一人が現在の時点所謂現在その身そのまま、どんなになら目に余る様な悪い事をしておる人でもですよ、例えば極端に言うと、ね。其処の所を起点として、其処からです其処から一歩ずつでも、所謂ね、愈々悪くなって行くと云う事ではなくて、其処からです其処から一歩ずつでも神様へ向うて行く信心をさして下さいという願いです。だから是ならばです、私は思わせて頂いたんですけれども、悪く成り様がなかろう。良くなるばかりだと思うですね。
 意味が解るでしょうか。そういう例えば思い方の中にです、もう神様が一晩中、まあそれはおいさみが無かっても矢張りお互い皆誰の場合でも、休んでおろうが起きておろうが、『清い所であろうが汚い所であろうが天地乃神はお守りあるぞ』と仰る様に、その御守護の中にあるのだけれども、その御守護を実感すると云う事はね、神様は私が思うた事をもう見抜いて御座る。私が祈った事をもう神様は聞いて御座ると言うのはです、もう私の布団が敷いてある周辺にですね。
 ずっうとおいさみがあり続けでした。ははぁこういう生き方こういうあり方にならせて頂くと云う事が、私はしたら今日はこの18節です。ね。『生神とは神が此処に生まれると云う事であって、皆んなも此の様なおかげが受けられる』私のなら信心をですね、まあ六十一歳になりますから、61年間という間を段々お育てを頂いてです、神の氏子としての値打ちと言う物を、言うならば一年一年それに近付いておかげを頂いて来ておる。例えばならここ四五年なら四五年の事を思うても。
 五年前の信心四年前の信心、三年前の信心二年前の信心去年の信心、ついこの頃までの信心現在の信心ね。もう一歩一歩づつ一分一厘ずつではあるけれども、我が心が神に向こうて行っておるというと言う事なんです。私は昨夜寝ながら祈らせて頂いた様な祈りは今までかつてした事はなかった。あげなこっちゃあの人はおかげ頂ききらんから、どうか一ちょう改まってからおかげ頂いてくれないけんからまあ言うても聞かしよう。また祈りもせにゃならん。まあ私が修行致しますからどうぞおかげをやって下さい。
 こう云う様な感じでした。所が昨夜のはそうじゃない。もうどういうんなら状態にね。そんな事ではおかげを受けられんと言う状態であってもです、その身そのままそこにおかげを受けておるんだと、現在、現在の時点で良いというのじゃないけれども、現在の時点から、んならね。一歩ずつでも所謂信心の方へ心が動いて行く様に、進んで行く様に、神に近付いて行く様にという祈りなんです。
 私は今日此処あのう十八節を頂かせて貰って、今迄と所謂『生神とは此処に神が生まれると言う事であって』と信心さして貰って、自分の心の中に和らぎ賀ぶ心が生まれて来る。自分ながら自分で自分の心を拝みたい様な心が生まれて来る。ね。そういう心がです、ね。言わば束の間の物ではなくて、ね。絶えずそういう心が使われると云う事がまぁ生神だと、又はどちらへ転がしても喜びが出て来る。どんな場合であっても。例えば試験に合格出来た有難い。不合格の通知を受けた有難い。
 もうどちらにしても神様のご都合に違いはないと信ずる所から、そういう同んなじ有難いものが生まれて来る。そういう境地を生神の境地と云う風に聞いて頂いてましたね。なら矢張りそれは同んなじ事です。今日もそうです。そして私は思うのですけれども、和賀心を以て祈ると云う事。ね。言うならば私が例えば皆さんの一人一人の事をね今のままでね、あげな事じゃおかげが受けられんと決め付ける様な思い方ではね本当なおかげではない。それは生神の祈りじゃないと思うです。ね。
 例えばほんなら、息子がどんなにまぁ不良化してして行っておる息子がおると致しましょうか。だからそのままで良いのだと、けれどもこう云うなら祈りをさせて頂くから、それ以上は悪くはならないと云う事です。その身そのままで、もうおかげを受けておるんだと云う事なんです。ね。そして尚且つんなら願わなければならない、縋らなければ居られない事は、ならそれで良いと云う事ではないのですから、ね。それが悪くなって行くのではなくて、其処からそこを起点としてですね。
 一歩ずつでも信心にならして貰う、神に近付かして頂く心と云う物を願わせて頂ける。そういう心の状態を、私はそういう心の状態をもっと深くてもっと広い心を私は生神と思うんです。生神の心というのはそう云う広い豊かな、もうお礼を申し上げるばっかりの心でです、それでも尚且つ、『どうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよ』と神様の心がそれである様にです、ね。
 おかげを受けてくれという祈り願い、それが私は『生神とは…』というのは、そう云う事だと。それを私はその思わせて頂いてです、ね。言うならばね、三年前、二年前、一年前、ついこの頃の私の心の中の状態、そして今の心の昨夜から今朝にかけて思うておる状態というのは違う。どう云う風に違っとるかというと、生神に向かっておる状態であると言う事。だからまだ是はどれだけ深くどれだけ広く進展して行くやら、また進展して行かなければなりませんのです。
 そういう広い深い又は愛の心を以て祈るからおかげになる。自分はますます助かって行く。其処にはね、人を責める時は自分が助かっていない時です。あんたばっかりはどうしてと云う時には、もう自分自身が助かっていない時です。まあどうした分からん奴じゃろうかと、例えばなら自分の息子の事なら息子の事でもです。と云う時には、もう解らん息子を持っておる親は不幸でしょうも。まどうした分からん奴じゃろうかと思うた時には、自分自身も助かってない時です。ね。けれど昨夜から今日にかけての。
 私の心の状態というのは助かっておる。それでよいと言うのだからいや良いだけではない、その時点でお礼を申し上げておるのである、ね。そしてお礼を申し上げておるから、それで良いかというとそうじゃない。どうぞ信心しておかげを受けてくれよという、天地の親神様の心を心として祈っとる。ね。それでもうそれより、悪くなるのではなくてそれより一歩ずつでも、神様の方へ近付いて行く我が心がその人達の心が、信心の方へ進んで行くという祈りなんです。ようにという願いなんです。
 昨夜から今日にかけて私の心の中に頂いておるその心の状態を、なら今皆さんに聞いて頂いた訳ですけれども、言うなら其処迄の心のおかげの、私が受け始であると言う事になる訳です。ね。昨日こういう心の状態じゃなかった。だから私が初めて此処ん所まで頂いた。私がおかげの受け始であって、皆さんもその通りのおかげが受けられる。なら此の御理解を頂いてから、ああ自分達の祈りと云う物が、願いと云う物が一生懸命お願いはしよるけれども、これでは本当のおかげにならないはずだ。
 生神の願いではない。和賀心での願いではない。ね。此の大きな心、此の深い心、現在頂いておる、此の心が生神と言う意味じゃないけれどもです、是のもっともっと深い広い心が生神と云う事になるでしょうけれどもです、そう云う序の口ではあっても、そう意う心を以て祈る。そう云う心が和賀心。私は和賀心であると云う時はもう生神だと思うですね。その和賀心で祈る。あげな事じゃあの人は助からんから祈るというのじゃない。もうあげな事でもその人は助かっておる。私も助かっておる。ね。
 だから私が皆さんに聞いて頂いたこの実感をです、ならほんにそうもう只今から祈る願うでもです、なら例えばなら子供なら子供の事が一番実感的でしょうが、そのままで良いのだとねそのままで良いじゃない、それでおかげを受けておるんだというお礼を申し上げる心です。ね。そしてそれで良いと云う事ではないのだから、一歩でも神様の方へ心を向けてくれる様に、一歩でも足を神様の方へ向けてくれる様にという願い、切なる願い是は神の願いですそのまま。どうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよ。
 神様はどうぞ信心しておかげを受けてくれよと仰っておられるけれども、ね。そげな事じゃ出来んと言うて、許さんと云った心ではない訳です。ね。もうその身そのままで助かられるんだという頂き方なんです。ね。けれども親の願いとしては、神の願いとしては、よりおかげを受けて貰たいから、どうぞという願いなんです。ね。昨夜から私が有難いと感じておる事は、とてもなら今みなさんに聞いて頂いた言葉ぐらいで表現されるものじゃない。『此方がおかげの受け始である。
 皆んなも此の様なおかげが受けられる』今日は昨夜からずっと感じ続けておる、こういう心の上に頂いておるおかげというのは、私も長年ずうと信心をして来たけれども、昨夜から今日にかけて始てこういう心の状態にならせて頂いておる。しかも続いておる。ね。だから、私がおかげの受けはじめである。ね。その受けはじめのまあだ言わばほやほやのおかげのおかげを皆さんに今日は聞いて頂いたわけなんです。だから、皆もその通りのおかげが受けられるというおかげをまっ頂いて頂かなければならんと思いますね。
   どうぞ